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「茂吉の再生」2012/05/03 [美術展]

 今年は斎藤茂吉(1882-1953)の生誕130年である。故にメディアに茂吉や茂吉にゆかりある人々にふれた記事や番組を目にすることが多い。孫の斎藤由香が父北杜夫の伝聞を元にした鰻のエッセイ、長男斎藤茂太氏の茂吉の養父斎藤紀一のエッセイなどがこの1週間ほど、筆者の目に触れた。筆者にとって斎藤茂吉の歌は脂っこい、情熱的な歌で生きることのエネルギーを落としてしまった者にはやや辟易するのもある。だが、芥川龍之介が茂吉によって「詩歌に対する眼を開いてもらった」と激賞したように、西洋に対峙した日本の短詩系文学としての解答があったように思える。ちなみに筆者の好きな茂吉の歌は「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」である。
 4月28日から横浜の神奈川近代文学館で「茂吉再生」の企画展が始まった。初公開されるのは13歳の夏休み日記。寺の住職の元で詩歌や歴史、絵画を学んだ少年は早熟だった。筆者は作家の筆跡を見るのが好きだ。そのために文学館や博物館、美術館に足を向けるといっていい。その筆跡を見て作家のオリジナルな精神と、また経年変化による精神の彷徨を想像してみる。茂吉の筆跡は繊細で緻密に思えた。激情家にして論争好きの作家にしては、また豪快な大書「写生道」を知る人にとっては意外かもしれない。が激情家ほど内にそうした性向を秘めている場合が多い。だからこそ精神医学の道を選んだともいえる。筆跡からもうひとつうかがえたのは粘着質な性格だった。細かくそして均質的な字整然と並ぶ。義理の弟斎藤西洋に高校受験の勉強法を説いた手紙はその典型だ。こうした粘着質が五島茂や太田水穂との論争に遺憾なく発揮されていると思う。                斎藤茂吉が一般の人々に永らく愛されるようになったのは二人の息子によるところが大きい。斎藤茂太と北杜夫である。特に北杜夫の「楡家の人々」で斎藤家に連綿と伝わるエトスとパトスが豊かに表現されて人口に膾炙されるようになった。最晩年に撮った茂吉、茂太、そして宗吉(北杜夫)の写真がある。昭和二十四年。その頃箱根に持っていた別荘の周辺で撮影されたものだが、箱根の山を背景に老衰を感じさせる茂吉とこの頃はまだ痩躯の茂太、そして宗吉の三人の図。宗吉は大きなつぎはぎが二つあるズボンを履いている。妻輝子との別居を解消し、成長した二人の息子に支えられるように立つ茂吉。北杜夫は後に「この頃の斎藤家が今でも理想だ」といった趣旨のことを述べている。事実、戦争、病院経営、そして家族の問題を乗り越えてきた3人の表情は穏やかさに満ちている。死が訪れたのはこの写真の撮影から四年後の昭和二十八年。展示にはデスマスクがあった。意外にも小顔であり、あの特有の髭はついてなかった。

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